めくらぶどうと虹 城あとのおおばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になり、畑の粟は刈られました。 「刈られたぞ。」と云いながら一ぺん一寸顔を出した野鼠がまた急いで穴へひっこみました。 崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立っています。 その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶどうの実が、虹のように熟れていました。 さて、かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向うの山は暗くなりました。 そのかすかなかすかな日照り雨が霽れましたので、草はきらきら光り、向うの山は明るくなって、大へんまぶしそうに笑っています。 そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたように飛んで来て、みんな一度に、銀のすすきの穂にとまりました。 めくらぶどうは感激して、すきとおった深い息をつき葉から雫をぽたぽたこぼしました。 東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のようにやさしく空にあらわれました。 そこでめくらぶどうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました。 めくらぶどうと虹
まなづるとダァリア だものの畑の丘のいただきに、ひまはりぐらゐせいの高い、黄 色なダァリヤの花が二本と、まだたけ高く、赤い大きな花をつけた 一本のダァリヤの花がありました。 この赤いダァリヤは花の女王にならうと思ってゐました。 風が南からあばれて来て、木にも花にも大きな雨のつぶを叩きつ け、丘の小さな栗の木からさへ、青いいがや小枝をむしってけたた ましく笑って行く中で、この立派な三本のダァリヤの花は、しづか にからだをゆすりながら、かへっていつもよりかゞやいて見えて居 りました。 それから今度は北風又三郎が、今年はじめて笛のやうに青ぞらを 叫んで過ぎた時、丘のふもとのやまならしの木はせはしくひらめき、 菓物畑の梨の実は落ちましたが、此のたけ高い三本のダァリヤは、 ほんのわづか、きらびやかなわらひを揚げただけでした。 まなづるとダァリア
おきなぐさ うずのしゅげを知っていますか。 うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます。 そんならうずのしゅげとはなんのことかと言われても私にはわかったようなまたわからないような気がします。 それはたとえば私どもの方で、ねこやなぎの花芽をべんべろと言いますが、そのべんべろがなんのことかわかったようなわからないような気がするのと全くおなじです。とにかくべんべろという語のひびきの中に、あの柳の花芽の銀びろうどのこころもち、なめらかな春のはじめの光のぐあいが実にはっきり出ているように、うずのしゅげというときは、あの毛科のおきなぐさの黒朱子の花びら、青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉、それから六月のつやつや光る冠毛がみなはっきりと眼にうかびます。 おきなぐさ
鳥をとるやなぎ 「煙山にエレッキのやなぎの木があるよ。」 藤原慶次郎がだしぬけに私に云いました。私たちがみんな教室に入って、机に座り、先生はまだ教員室に寄っている間でした。尋常四年の二学期のはじめ頃だったと思います。 「エレキの楊の木?」と私が尋ね返そうとしましたとき、慶次郎はあんまり短くて書けなくなった鉛筆を、一番前の源吉に投げつけました。 鳥をとるやなぎ
ガドルフの百合 ハックニー馬のしっぽのような、巫戯た楊の並木と陶製の白い空との下を、みじめな旅のガドルフは、力いっぱい、朝からつづけて歩いて居りました。 それにただ十六哩だという次の町が、まだ一向見えても来なければ、けはいもしませんでした。 (楊がまっ青に光ったり、ブリキの葉に変ったり、どこまで人をばかにするのだ。殊にその青いときは、まるで砒素をつかった下等の顔料のおもちゃじゃないか。) ガドルフはこんなことを考えながら、ぶりぶり憤って歩きました。 それに俄かに雲が重くなったのです。 ガドルフの百合
おとら狐のはなしは、どなたもよくご存じでしょう。おとら狐にもいろいろあったのでしょうか、私の知っているのは、「とっこべ、とら子。」というのです。 「とっこべ」というのは名字でしょうか。「とら」というのは名前ですかね。そうすると、名字がさまざまで、名前がみんな「とら」と云う狐が、あちこちに住んで居たのでしょうか。 とっこべとら子 |